文化・芸術

2013年7月25日 (木)

カメラと時計と身体、顔について

 昨日、寝る前に考えごとをしていたら、眠れなくなってしまった。

 考えごとというのは、身体ということについてである。ふと、身体というのは、一体、どのようなものなのだろうか、と思った。

 身体というものは、じっと見ることがない。誰かの身体をじっと眺め、そしてその身体を観察するということが、私にはできない。多くの人はそうだろう。電車の中で、街の雑踏で、あるいは、家の中でさえも他人の身体をつくづくと眺めることをする人はいない。もしそういう風にする人がいるならば、その人は少なくとも変人扱いされるか、あるいは、気味悪がられるようになってしまうだろう。つまり、身体は他人からはつくづくと見られることがないものである。

 私は、身体の延長とも言える物を偏愛する。カメラ、時計、万年筆。こんな道具を偏愛する人は、私だけではないようだ。ところが、他人の持っているカメラや時計をつくづくと見ることはない。首からカメラを提げているのを見て、あれは多分ライカだ、と思ってみたり、電車の中で誰かが時計を着けているのをちらりと見て、あれはタグ・ホイヤーの限定モデルだと思ってみたりする。つくづくと、その人の身体の延長にある道具を見ることはない。

 にもかかわらず、私は身体の延長であるカメラとか時計とかいうものを偏愛する。それは、一種、フェティシズムのようなものなのだろうか。自分の本来の身体の一部は改変することができない。せいぜい、太っている体をダイエットによって痩せさせるくらいのものだ。ところが、そうやって自分の体を改変したところで、誰かが自分の体を凝視するわけでもなく、逆に、自分は他人から凝視されることを拒んでいる。誰かが自分の体に、顔に、視線を注ぎ続けるとすれば、そこから何とかして逃れようとするだろう。それほど、自分の身体に対する視線というのは気味が悪い。

 カメラを取り替え、時計を取り替え、胸ポケットに挿す万年筆を取り替えるのは、果たして、どんな意味があるのか。それは、取り替えのきかない自身の体の一部を改変して、満足させようという自己満足の延長なのだろうと思う。写真を撮るという行為は、眼の延長とよく喩えられるが、それは自分の目だけでなく、脳の一部、例えば記憶と密接に関わっている。自分の記憶を自分の体の痕跡のように、蓄積しておきたい。そんな気持ちがどこかに働いているのではないか。

 つげ義春の漫画に、髪を家で切って、その髪を捨てられずに袋に入れて押し入れの中に貯めておく話がある。排出される身体の一部を、ああやって蓄積しておきたいという欲求が、人間のどこかにあるのではないか。記憶はやがて自分の中から姿を消す。記憶は、得るものであるというよりも、排出されるものである。そのような排出されてゆく記憶を何とかして留めたい。そんな写真の持つ身体性が、写真という行為をもたらすのではないか。そして、その道具であるカメラは、誰が見るというものでもないにもかかわらず、良いものが欲しいと思う。自分の記憶の排出を留めるための道具は、出来るだけ自分の身体に近いものが良いと感じるからだ。

 時計はどうだろう。時計はただ、時間を計るだけのものだ。だが、時計は、カメラよりも遙かに身体性が強いと思う。他人の持っているカメラを見る時間と、他人の着けている時計を見る時間は、圧倒的に時計の方が短い。それでいて、どのような時計を着けているのか一瞬で時計マニアは見分けてしまう。自動巻か、クォーツかは勿論、メーカーや製造年代まで当ててしまう。

 時計は顔に近い。人は決して顔をじっと見ることはない。あるいは、誰かがじっと見ていたとしても、その視線は常に跳ね返される運命にある。顔は、一瞬しか見られない。であるにもかかわらず、人はその顔に固執する。美容整形をし、化粧をする。年をとればしわを気にする。でも、誰かに見られている時間というのは、一日のうちで1分もないのではないか。それでも、顔は見られていないとは言えない。たとえ0.01秒だけ顔を見たとしても、それが知らない人なのか、知っている人なのか、自分の好きな顔なのか、嫌いな顔なのか、性別、年齢、過ごしている環境…そのようなものすべてが記号としてもたらされてしまう。そして、知っている顔ならば、声をかけたりするのだ。「ちょっと痩せたな」などと。

 時計の文字盤のことを「フェイス」という。多分偶然なのだろうが、時計の文字盤も顔と同じような働きを持つ。一瞬でどのようなものなのか、そして、その人の生活レベルや趣味の領域まで一瞬で分かってしまうこともある。

 時計やカメラのような道具は、身体性を持つと言っていいのではないかと思う。マーケティングの中で、このような時計やカメラの身体性ということは今まで、考えられてきただろうか。デザインということはあるだろう。けれど、ただ、デザインということだけなのではないか。そして、プロダクツという面で考えてみれば、自分の身体とぴったり合う工業製品というのは存在しないので、時計やカメラは次々に欲しくなるのだ。いつか、自分の本当の意味での身体となるべきカメラや時計が出現するのではないか、と。

 多分、時計やカメラといった身体性を持つ道具は、決してなくならないし、バリエーションも更に多くなってゆくことだろうと思う。服と同じだ。

 しかし、カメラや時計は、奇妙な道具である。他者からはほとんど見られることがないのに、ステイタスの象徴のようになっていることがある。カメラは、時計は、きっと顔と同じなのだろう、と結論づけて、眠りに就いた。

20130725

Nikon D7000 w/Tamron 18-270mm F3.5-6.3 PZD

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